ポジティブ過ぎる人と話すと相手がバカに思えてきた話

初対面の人と2時間くらい話す場面があった。

 

スケジュール的にどうしても必要な場面だったので、せっかくならということで喫茶店で話した。

 

一つ年上の女性だったこともあり、話す内容は世代的には割と合っていたと思う。

 

ただ、少し話し始めるとだんだんと違和感を覚えてきた。

 

彼女は異常なまでのポジティブ思考の持ち主。

 

とにかくこっちの話をなんでもポジティブに変換してくる。

 

どんなネガティブなことを言ってもポジティブに返してくる。

 

「でも私だったら〜」

 

「そういう時の考え方としては〜」

 

俺が一言いうたびに長い長い自分論のお話が始まる。

 

最初は「前向きだな」と思ってたが、

 

途中で「こいつはバカだ」と感じてしまった。

 

あまりにもポジティブ過ぎる人と話すと、だんだんとなんなんだこの人はと思ってくる経験は誰しもがあるのだろうか。

 

そして、別に頭が良いわけじゃないと気づく。

 

どっかズレてる。おかしい。

 

こっちは会話がしたいのに、ひたすらポジティブな面しか言ってこない。

 

コミュニケーションができない。話が長い。

自分の考えをひたすら言ってくる。

 

そして無駄すぎる前向きさ。

 

別にポジティブシンキングができるから頭が良いわけではない。頭の回転が速いわけでもない。

 

ポジティブ過ぎるやつって、なんでもかんでもポジティブに考えればいいみたいな思考だから、

起きたことをただ単に逆から見てるだけなんだよな。

 

俺の経験上、それだけじゃ物事ってあんまり解決できないと思う。

 

考え抜いた上でポジティブに捉えることは全然良いと思うが、すぐにポジティブに変換されるとうざい。

 

あまりにも無理すぎるポジティブシンキングを言われたときは、思わず吹き出しそうになってしまった。

 

 

そして、会話してる途中でその女性がフリーターだということを知る。

 

働けよ。

 

まさか働かないことすらポジティブに捉えられるというのか。ポジティブに考えられるから俺の目の前でチョコレートパフェ食えるのか。

 

 

バカに思えてきてしまう。そこはもっと深く考えてくれよ。

 

 

別にポジティブシンキングが悪いとは言ってない。

 

考え方の一つとしては良いことだとはもちろん思うが、

別に何もかもをポジティブに考えすぎだ。

 

本当にうっとうしくなる。

 

辛いことがあれば、とことん落ち込めばいいだろうし、愚痴を言ったっていい。

 

そういう喜怒哀楽があるほうが人間らしさが感じられて俺は好きだ。

 

ただ、今日の女性はやべぇ人だった。

 

仕事の愚痴も、こっちは受け入れて話して欲しいのに無理やり思考を変えさせてくる。

 

別に、俺だってポジティブな捉え方ができないわけじゃない。

 

こう考えればポジティブに思えるなんてことはわかっている。

 

ポジティブ過ぎる人って、相手がポジティブじゃないとまるでポジティブシンキングを知らない奴と思ってくるから、タチが悪い。

 

教えてこようとする。

 

「そういう考え方自分も持ってますよ」とでも言えばよかった。

 

まるで俺がネガティブな人間に見えてくるじゃないか。

 

途中で何かの宗教かと勘ぐるくらいのポジティブさ。そして話が長い。

 

10分間ずっと喋り続けられるこっちの気持ちを考えて欲しい。

 

ずっと「なるほど」とか「そういう考え方ですか」と相槌を打たないといけないのは辛いんだぞ。

 

ポジティブ変換マシーンじゃないんだから、もっと楽しく会話をしたかったなぁ。

 

ま、こういう人もいるか。

 

 

遊女を描いた作品「さくらん」を見た感想

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前から見たいと思っていた映画。

 

時間もようやくでき、Netflixで見ることに。

 

この映画は遊女に焦点を当てた作品だ。

 

遊女とは、いわば娼婦や売春婦の古い呼び方。

 

今は風俗嬢と言ったほうがピンとくるだろうか。

 

だから、今でいう風俗、そして風俗の中でも、

ソープランドのお話だ。

(正確にはトルコ風呂と呼ばれていたのだが、詳細は遠慮しておこう)

 

そして、表舞台が男主観の世界であるとするならば、この映画は完全に裏の舞台を書いた作品だ。

 

遊郭で働く女性視点での、お話だ。

 

 

東京台東区に吉原と呼ばれる街がある。

ここはかつて江戸時代遊郭と呼ばれていた区画のことで、漢が遊女を物色し気に入った遊女と遊ぶ所だった。

 

今でも吉原にはソープランドが数多く立ち並び、それぞれの店にはスーツを着たボーイさん達が客引きをしている。

 

初めて吉原に行った時、すごく衝撃的だったとを覚えている。なんだこの街はと。

そして同時に、この街の歴史を無性に知りたくなった。

何故こんな街ができたのか。どういう歴史を紡いだきたのか。

気になって仕方がなかった。

 

まさにこの映画は、昔の吉原を描いた作品。

だからこそ、見入ってしまった。

 

1人の幼い少女きよはが、8歳から玉菊屋(吉原にあるお店)へと入ることになった。

そのきよはが、花魁へ成り上がっていくまでの物語だ。

 

この玉菊屋とはいわゆるお店のことであるが、昔は20年経たないと外には出られず、それまでの間ただひたすら芸を磨き、男の相手をする必要があった。

 

出られないという意味では、遊郭は牢獄のような環境。ひたすら娼婦として働くということだ。

 

花魁になれなからばお茶をひいていたり、より過酷な環境で働かされたりするようだ。

 

とはいえ、遊女といっても、ただ単に今で言う娼婦のようなことだけをしているわけじゃない。

 

お客を喜ばせることが根底にあるため、三味線や稽古ごとなど、多くのことを学ぶ必要がある。

 

 

前提として、俺は風俗に偏見は持っていない。

この映画をニヤニヤと見ていたわけじゃない。

 

俺は風俗嬢を心から尊敬している。

 

馬鹿にしている友達もいるが、俺はそうは思わない。

 

 

まぁ実際に行って合わなかったというのならまだマシだが、もっと酷いのが行ったことがないのに「風俗なんて」と馬鹿にしている奴。そういう奴とは友達関係を切ったほうがいい。

 

何事も経験しないと始まらない。文句を言うのだったらやってみてから言わねばなりんす。

 

話を戻して映画の感想を記そう。

 

映画を見て思った。

 

「昔の遊郭に行ってみたい」

 

映画であるが故に、実際はここまで華やかでないとしても華やかに描写しているのかも知れないが、

 

そうであったとしても確実にいってみたい世界だ。

 

大阪の飛田新地ももちろん華やかであったが、やはり俺は昔の吉原へ行きたいと思った。

 

1人の男として、数多くの男の人に紛れながらも、確実にあった過去の現実を見てみたい。

 

やっぱり花魁というのは華やかで、綺麗なんだろうな。

遊郭において花魁というのは人気ナンバーワン嬢ということだ。

その姿に憧れた女性たちが、「私もいつか花魁を」と、日々男の欲望を受け止め、奮闘しているのだ。

 

結局は女同士の戦いであり、その歴史は今も残っているように思う。

 

 

昔俺が一つ風俗嬢から教わったことがあって、それは

 

人の欲を相手にしていると自分を客観的に見るようになる

 

ということ。

 

毎日毎日男の欲望を受け止めていれば、自分がどう振る舞うべきか、どうあるべきかが分かってくるという。

 

映画を見て、まさにそうだと思った。

 

言うセリフがどこか客観的なんだが、でも、まとを得ている。

 

一つ言えるのは遊女たちは色々な経験を積んでいるということ。これは今も昔も変わらない。

別に人数の話をしているわけではない。多くを経験(良いことも悪いことも)し、辛い思いをして今があるんだということを再確認した。

 

改めてすごい仕事だよなと思う。

 

今でも納得するような言葉ばかりがたくさん出てきて、ちと身震いがしたでありんす。

(このありんすというのは遊女たちが、自分がより上品に見られるように使っていた廓詞である)

 

椎名林檎はじめてちゃんと聞いたけど、画と合わせると音楽がすごく響いていい。特にこの映画のように精細な色使いをしている映画では、特に合う。

 

 

 

土屋アンナが演じたきよはのような性格は、意外と男ウケはよいのかもしれない。

 

ただ、今の風俗は食事をする時間はない。遊郭の時代は一緒に酒を飲み、それからというのが常だった。

 

今はもう出会ってすぐガッチャンコだ。

 

でも、それで良いのかも知れない。向こうからしたら気持ち悪いただの客と酒なんか飲むかと思っているかも知れない。いや、確実にそうだろう。

 

食事をするならその分余計に枠を取らないとだ。

それはお金もちにしかできない。

 

 

いやー、ちょっと先輩つれて吉原行ってこようかな。

 

知れば知るほど、さらにもっと知りたくなるこの遊郭、吉原の歴史。

 

そして性の欲望というのは、単純なようでものすごーく奥深い世界だと思う。

 

タイムスリップできるのなら、俺は間違いなくこの遊郭の時代を見に行くだろう。

 

吉原、赤線、青線、、

 

この映画を通して、遊女の光も闇も、見えた気がした。

 

 

オフピークと睡眠

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オフピーク通勤によって、1時間早く出勤している。

 

9時始業のところを、8時始業に無理やり変えている。

本来なら8時15分に家を出れば間に合うのに、今は7時15分に家を出る。

 

本来なら7時に起きれば間に合うのに、今は6時に起きている。

 

通う期間が終わり正社員として勤務し始めてからは、定時に出社したことなんて5日もない。

 

殆どが8時出勤。

 

これじゃあどこかの工場勤務社員やないか。

別に卑下してるわけじゃない。

 

そんな中で楽しみなことが一つ。

 

在宅勤務だ。

 

この時だけは9時始業だ。

 

9時始業とは言っても、スーツを着て身支度を整えるわけではない。

 

パソコンをつけて出勤記録を押せばいいだけだ。

つまりどういうことかというと、9時に起きていればいいわけだ。

 

それはつまり、8:55まで寝られることを意味する。

 

いつもよりも約3時間起床時間が遅くなるということ。

いつもより3時間余分に睡眠できるということ。

 

こんな贅沢があるだろうか。

 

3大欲求の1つでも贅沢に扱えるとこんな幸福感があるなんて。

 

一度3大欲求を全て同時に体験することはできないだろうか。

 

でも仕事をやるとなると在宅勤務は嫌なんだよな。

 

やる気は出ないし上長との連絡も取りづらい。

 

新人が在宅勤務なんてするもんじゃない。

 

やっぱり出社しようかな。

 

3時間余分に睡眠できるチケットを自ら手放すなんて、俺も大したもんだな。

 

まぁ、朝になればこのチケットを握って離さないだろうな。

 

 

ところで、俺の家で仕事をしている人たちよ。

 

君たちは一体、

 

 

 

「秒速5センチメートル」を見た感想 重たすぎて苦しいバッドエンド

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新海誠が手掛けたアニメーション映画。

 

実はこの映画を見るのは今日で2回目だ。

前回は2ヶ月前くらいか。

 

最初に見た時も、「なんて重たい映画を見てしまったんだ」と苦しかったが、今回見てもやはりしんどいバッドエンドだと思った。

 

自分史上最大のバッドエンドだったことは変わっていない。

 

だけど、ハッピーエンドと受け取る人の意見も少しわかった気がした。

 

 

そもそも、なんで秒速5センチメートルをもう一度見ようとしたかと言えば、昨日書いたブログ、音楽に引っ張られたからだ。

 

山崎まさよしのone more time,one more chanceはこの映画の主題歌だ。

 

そして、「二度と会えない人だけど、どうか会いたいと思ってしまう」感情を繊細に描いたのはこの映画だ。

 

だから、昨日ブログを書きながら、もう一度しっかり見たいという欲がどんどん出てきて、いてもたってもいられなかった。

 

あぁそうか、だから今日の仕事は怒られまくったのか。まぁいい。

 

主人公の貴樹の感情、俺はすごくわかる。そして同時に、山崎まさよしの歌詞が痛いほどに染みる。

 

誰しもが心の奥底に溜まっている感情は、この映画を見るとすごく引っ張り出される感覚を覚える。

 

なんかこう、すごく苦しいものがこみ上げてくる感じ。

ナルトの腹の中にいる九尾が出てこようとする感じか。

 

ダメだと思う一方で、でも出てきて欲しいと思うあの感じ。物想いにふけたいときに、それは出てくる。いや、自ら出しているのかもしれない。

 

少し話が逸れた。

自分の心の中の言い表せない感情には今は目を向けないでおこう。

 

 

映画の話に戻る。(内容の説明はしない。見た人にだけわかってくれればいい)

 

そもそもなんで俺がこの映画を見てバッドエンドだと感じるのかと言うと、主人公の貴樹は結局前を負けきれずに終わっているからだ。

 

貴樹だけじゃない。花苗もだ。最初の明里もそう。どの場面も望んでいない方向へと進んでいく。

 

なんでそうなっちゃうんだと心の中で何度も思った。「残酷すぎる」と。

 

花苗に関しては、花苗のもつ気持ちは半分正解で半分は勘違いだった。それに気づかないまま貴樹と離れてしまう花苗の気持ちを思うと、辛かった。

 

まさか好きな思いはあっても、貴樹が宛先のないメールを打っているとは知らなかっただろう。

 

もったいなさすぎる恋だと思った。高嶺の花とかじゃない方の、もったいないね

 

でも、あのコスモナウトが貴樹の気持ちを視聴者に気づかせるきっかけになっている。

 

エンディングに向かうにつれて、大人になるにつれて、貴樹は結局昔の記憶が頭から離れず、その世界と現実を行き来したまま大人になってしまった。

 

一方の明里は彼氏ができたりと、次のステップへと生きている。

 

明里は前に進んでいるが、貴樹は前に進めていないこの構図が、最後の場面ではっきりした。

 

なぜ、こう対照的な結果になったのか。

この違いって多分ね、「男は精神的に弱いから」だとか、「女は前を向く生き物だから」とかそういう理由もあるかもしれないが、

 

「思い出が残っているかどうか」の違いもあると俺は思う。

 

要するに、明里は貴樹との手紙を大人になっても持っていた。だからその手紙をたまたま見たときに、手紙を頼りにきちんと過去を振り返ることができるし、思い出せるからこそ「あんなこともあったな」と、思い出の一つとして振り返り、前を向けるんだと思う。

 

一方で貴樹は手紙を持っていなかった。思いだすモノ何も持っていない。それはつまり、明里を思い出すのは頭の中でしかできないということ。頭の中で思い出すと言っても、断片的な記憶だけだ。それに記憶は美化されるという言葉があるように、貴樹は断片的なそれを必至につなぎ合わせて、

頭の中で考える。

頭の中で出会う。

頭の中で明かりと話をする。

 

言わば貴樹は架空の世界に生きている感じなんじゃないだろうか。

 

現実世界とは違うパラレルワールドが貴樹にはあって、その世界にはあの頃の明里がいる。

 

だから辛い時、心に弾力がなくなったときにはその世界へ入り込み、過去を思い出すのではないだろうか。それはもう思い出というよりも妄想に近いというのに。そして、それこそが心に弾力をなくす事だというのに。

 

「とにかく前に進みたくて、ほとんど脅迫的な思いがどこから湧いてくるのかもわからない」

という貴樹の言葉。

 

これはそのパラレルワールドから抜けようと努力していたのに、次第にその努力のやる気は無くなっていく。それに気づいたときにふと、心の張りがなくなり、仕事を辞めるほどやつれてしまったんだろう。

 

なんでこうなってしまったんだろう。

 

その答えは、最後の踏切のシーンで一気に貴樹フラッシュバックして出てきたのではないかと思慮する。

 

最後のシーン、貴樹が辛すぎて心が苦しかった。

 

踏切で明里と貴樹がすれ違ったとき、貴樹だけが振り返った。明里は振り返らなかった。

 

このシーンに全てが詰まっていた。

 

前に進んだ明里と、進めない貴樹。

 

過去を彷徨う貴樹に訪れた一瞬の奇跡。振り返ればもう一度明里に会える。

 

でもその願いは叶わず、電車が過ぎ去った後に明里はいなかった。

 

貴樹だけまだ前に進めていなかったのだ。だから振り返った。

 

こんなにわかりやすく、残酷なシーンがあっただろうか。

 

パラレルワールドを捨て現実世界を生きるチャンスだったのではないだろうか。

だからこそ、明里に、振り返ってほしかった。

 

こうも思い通りにいかない映画があるだろうか。

やっぱり重たい映画だ。

 

 

でもこの映画さ、原作だと最後のシーンで貴樹はニコッと笑ってるらしいね。

 

さらに、映画でもちゃんと笑っているらしい。

本当か?それは確かめないと。

それを確かめるためにもう一度見たみたいなもんだ。

 

そしたら、たしかに最後ニコっと笑っているのだ。

 

 

であればそれはつまり、過去に折り合いをつけたということだろう。

貴樹が過去を断ち切り、前に進んだんだ。

 

過去の萎え切らない気持ちが、思い出へと昇華した瞬間だろう。

 

あぁ、そうか。バッドエンドではあるけど、少しだけ、ほんの少しだけ貴樹は前に進めたんだな。

 

自分の力で、パラレルワールドに抜けたんだな。

あぁ、よかった。涙が出そうだ。

 

貴樹が可哀想すぎたから、本当よかった…

 

 

 

貴樹すごく親近感あったな。

もしや今の俺の状態は貴樹か?俺は貴樹なのか?

だからまた映画を見たのか?そうなのか?

 

まぁ、いいや。自分の心のことは自分で整理しよう。

 

この映画で教訓になることが2つある。それは、思い出は残しておくべきだということ。昔付き合った人との写真なんかは、残しておいた方がいいんだわ。

 

そのモノが思い出に色をつけ、それが同時にストッパーにもなる。ひどく入り込まず、適度な距離感で過去を思い出させてくれる。

 

逆に思い出の品がなければ、頭の中で余計な色つけたパラレルワールドが出来上がってしまう。その中で妄想が始まり、出てこれなくなってしまう。美化されすぎて、過去に引きずった人が出来上がる。

 

やっぱりワシやないかい。

 

 

2つ目。どんなことも時間が解決してくれるということ。どれだけ辛くても、なんとも言えない気分に苦しむことがあっても、時間が解決してくれる。見方になってくれる。

 

貴樹の様に、良い思い出として、あるいは正確な記憶として昇華する時が必ず来るということ。

 

だから、そういう意味では今の感情に正直に生きることも大事なのでは。と思う。

 

いやぁ、やっぱりしんどいわ、この映画。悲しい。

 

そしてあの踏切のシーンだけで今までの感情を詰めて、表し切るとは、映画監督ってすごいんだな。

 

新海さん、こんなにリアルで悲しい映画を作っちやうと、俺みたいな被害者がわんさか出ますよ。

 

あと、この映画で流れる音楽は雲海の旅2で存分に使わせてもらった。誰かわかるかな。

 

そういう意味では、悲しい映画だけど、すごく心に残っている映画だネ。

会いたいのに、もう二度と会えない人を思う夏休み最終日(後編)

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前編後編と書いた。

 

最初に投稿した記事で終えようかと思ったが、

 

未来の自分が同じ気持ちになった時のミチシルベとして、もう少し書いておく。

 

 

その人に感謝を忘れず、

 

どうしてやろうとか、こんなことを伝えたい、などというそんな気持ちは必要ない。

 

ありがとう

 

この気持ちだけで十分。

 

これからその人にはその人の人生が待ってる。

 

お世話になったものとして、その人生を応援するのが普通だろう。

 

関わり過ぎてはいけないラインというものが誰しもにあって、もしかしたら俺はそのライン跨いだのかもしれない。

 

だったらなおさら、自分の立場を弁えて、リスペクトの気持ちを持って感情に向き合うべきだ。

 

 

その人がどこかのコンビニでバイトしてるかもしれない。

ネガティブになり過ぎてはいけない。

 

もしかしたら会えるんだから。

 

 

世の中は一期一会だ。

 

出会いもあれば別れもある。

 

出会った瞬間から別れまでのカウントダウンは始まっている。

 

もしかしたらこっちから終わってしまう関係だったかもしれない。

 

そう思えば、自分が送る側になってよかったじゃないか。

 

そうすれば一つ一つの出会いにさらに感謝できるはずだ。

 

いてもたってもいられない衝動に駆られることはあるかもしれないが、落ち着いて、ひとつずつ整理していけばいい。

 

起こってもないことを心配しないでその時間を準備に当てろしっかり。

会いたいのに、もう二度と会えない人を思う夏休み最終日(前編)

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こんな人はいるだろうか。

 

いないという人の方が少ないんじゃないか。

 

別にその人は死んでいるわけじゃない。

 

だから今日もどこかで生きている。

 

確率論を使うなら、ゼロパーセントではないから、一生会えないわけではない。

 

でも、会えない。会う術がない。会えるためのヒントすらない。

 

まるで交わるようで決して交わらない線のようだ。

 

そんな人が、いるだろうか。

 

ここでその人が友達なのか元恋人なのか、あるいは別の関係の人なのかという詮索は今は重要じゃない。

 

そんな詮索は野暮だ。

 

大事なのはその人との向き合い方だ。

 

すごく会いたいけど、もう二度と会えない人。

生きているのに。

 

そんな人をどう思うか。自分の中でどう整理をつけていくか。

 

夏休み最終日に少し考えてみる。

 

 

今日も世界のどこかでその人は生きている。そして、自分も生きている。

 

お互いに生きている。死んでいるわけじゃない。

会いたい。でも、会う手段は無い。

 

以前は会っていたのに、今は会えない。

 

考えれば考えるほど、死んでいる人を思うよりも苦しい気がしてきた。

 

ゼロじゃないのに、ほぼゼロ。

どうしようにもできないジレンマ。

 

死んでいるなら割り切れるけど、生きているからこそ割り切ることができない。

 

どこかで会えるんじゃないかという僅かな期待。

その期待にすがるしか手段がない。

 

無理だともう気付いているのに。

 

できるのは、頭の中で会話をすること。

と言っても、それは自分の妄想にしか過ぎない。

 

とある日にとある場所で偶然すれ違う可能性はゼロじゃない。

 

だからこそイメージする。

 

仕事終わりの電車で、とあるレストランの隣の席で、鮨屋のカウンターで、大きい交差点ですれ違って、、

 

どこかで会えないかなと妄想を膨らましては、会えた時になんて会話をするか妄想する。

 

妄想して自分を慰めるなんて、マスターベーションと一緒じゃないか。

 

会えない限り進展なんてあるわけがないのに。

 

一体どうしたらいいんだ。

 

会いたいなぁと悲しめばいいのか。

会えることなんてないのにか?

 

 

こんなことばかり言っていたら、俺はその人たちに恋をしているみたいだ。

でもそう言われても過言ではないくらい、その人たちを思い出し、会いたいと願う。

 

もしかしたら自分の中で後悔があるのでは?と考えた。

 

 

やるべきことは全てやった。

伝えたいことは全て伝えた。

 

もう何もない。

 

もしかしたらこのように、やり切って別れることができたなら、こんなにグズグズと悩んでいないのかもしれない。

 

そういう状態であれば、思い出しても、元気にしてるかな、頑張ってるかなという気持ちだけで済むはずだ。

 

この予想が正だとするならば、会えているうちに伝えるべきことは伝えるべきだった、という結論に至る。

 

なんで言わなかったんだろう。

 

会えてるから今は言わなくていいやなどという気の緩みに後悔する日は遠くない。

 

 

自分のエゴなのではないか?と考えた。

 

その人のことをどうにかしてやろう、もしくはその人の記憶に自分がいてほしいというわがままなのではないか。

 

もちろんその人にはその人の人生がある。だから俺なんかがその人のことを思うのはもしかしたら相手にとっては意味のないことなのかもしれない。

 

相手が俺のことを思い出す場面が来るのかといわれれば、そんなことはないだろう。あってほしいが。

 

この予想が正だとするならば、ただの自分のエゴなんだから、立場を弁えないといけない。

 

引き際というやつだ。精神的な意味で、その人から身を引き、次へ向かわなければならない。

 

会えていたからこそ、もう会えない現実が首を締め続ける。

 

 

でもね、もう心の中では分かっているのかもしれない。

 

いや、かもしれないというより、分かっているのよ、俺だって。

 

 

どれだけ自分が願ったところで、これは叶わない。

 

 

 

でも、分かっているからと言って納得することなんてできない。

 

だめだ、夜にこういうことを考えてしまうとマイナスな感情にしかならない。

 

だけどこれを朝考えるかと言ったらそうではない。

夜だからこそ考えられる。

 

 

やっぱり、会えているうちに思いや感謝は伝えないといけないと心から思う。

 

そしてその人を思い過ぎるのも良くない。

 

こう考えている限りはその人に依存していて、自分が前に進んでいないんじゃないかと思う。

 

 

まったく、自分が幼稚すぎるのか考えすぎなのか分からなくなる。

 

あの人元気かな、なんていう前向きすぎる言葉を言ってみたい。

 

 

ただ、今回みたいにふとその人を思い出し、考えるほどに視界が滲んでしまう日があってもいいじゃないか。

 

その人にもその人の人生があって、一生懸命に生きている。

 

だったら、その人を応援し、俺も頑張ろうと思えれば一番いいんだけどね。これがなかなか難しい。

 

もう、考えるのをやめようか。

 

 

この気持ちに似た歌何かあるかなと思ってたら、7割くらい当てはまる曲を思い出した。

 

今日はこれを聞いて寝ようか。

 

山崎まさよし one more time ,one more chance

長岡花火から思うこと

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8/2,3は毎年長岡市で花火が上がる。

 

まぁ長岡花火を知ってるか知らないかはまぁ正直どうでも良くて。

 

興味があるなら行ってくれ。凄い花火だと思う。

 

 

人生の半分以上長岡花火を見ている自分からしたらに、もうだんだんと感動しなくなってくる。

 

いや、感動しないっていうとそれはそれで誤解が生まれるな。

 

始まりがトップレベルから刺激だったから、それ以上は無いから感動も少なくなる感じかな。

 

費用逓減してるということ。

だから、東京の花火を初めてみたときはなんてショボいんだとつくづく思った。

 

神宮花火大会なんてもう二度と行かなくていい。

「いつメイン?」突っ込みたくなる様なボケみたいな花火が上がってたのを思い出す。

 

そんなことを考えてると、あぁ、やっぱり長岡花火すげえなって思う。

 

ただ、もういいかなとも思うよ。

そりゃみたいけど、血眼になってチケットとったりはしない。

 

こういう冷めた人間もいるさ。

 

 

 

別に花火の話をしたいわけじゃない。

 

言いたかったのは

「花火があがると夏が始まったって感じるよなぁ」っていうこの感性、感覚についてだ。

 

雪が降ったら冬を感じたり、セミが泣き始めたら夏だと思えることは日本の良いところだと思う。

 

「夏が来たなぁ、春だなぁ」と、誰もが一度は思ったことがあるはず。

 

 

こうした感覚は誰にでもあると思うが、俺が共感してほしいと切に願うのは、その先にある儚さだ。

 

ちょっと寂しさを感じることってない?

 

虚無感と季節の移ろいが交わるあの感じ。

 

あの感覚が好きで好きで仕方がないのだけど、わかるかな

 

単に季節を感じるだけでなく、その先にある少し悲しい気持ちもあるあの感覚。

 

誰かわからんかな、この感覚。

 

 

とあるイベントが終わった後の虚無感✖️季節

とでもいえばいいだろうか。

 

高校の卒業式が終わり、夜みんなでご飯を食べ、1人で帰り道を歩くときのあの感覚。

 

大学の卒業コンパで大酒をかっくらい、社会人がんばろうぜと写真を撮り、解散した後の虚無感。

 

どう、なんとなく分かってきたか。

 

ピンと来ない人はこの曲を聞いてみてほしい。

そうすれば少しわかるかも。

 

https://youtu.be/IG_FY3v0uWk

 

要はノスタルジーになる感じ。

 

懐かしい、そしてどこか悲しいあの日々、みたいな。

 

 

もっと鮮明に浸りたいんだけど、

座っているといてもたってもいられずソワソワしちゃう感じ。

 

もう少しわかりやすくいえたらいいんだけど

 

今の俺の力ではここまでだ。

 

あの感覚が好きだ。

 

そしてこういう感覚が俺の中には季節の数以上にある。

 

この月になったらあれを思い出したり、この場所に行くとこみ上げるものがあったり。

 

ナルシストなんだろうな。

 

 

けど、こうやって一つ一つの場面に対ししっかり自分の感情と向き合えている自分自身の事を、俺は良いことだよなぁと思える。

 

ただ闇雲に毎日を過ごす一方で、節目節目、あるいは場面場面でちゃんと立ち止まって感性に浸れることは生きていく上で大事だと思う。

 

 

働き始めて思うのは、こういう自分の中にある感覚を毎日大事にしていかないと一気に味気のない毎日になってしまうということ。

 

毎日遅くまで働いて、帰って寝て、朝起きて、休日は何もせずダラダラ過ごし、気づいたら日曜の夕方を迎えているような日々では、つまらない。

 

かといって出かける気持ちも起こらない。ましてやコロナで誘い方すら忘れてきた。

 

そんな中で大事な事って、一つ一つの感性とか感覚に向き合うことだと最近は思う。

 

眠たいとかめんどくさいとか、そういう感覚じゃなくて、

とある自然やある季節、場所で感じる感覚

 

それ大事にしたいと心から思う。

 

 

この感覚が全くわからないという声には、あえて耳を傾けないでおこう。

社会人の休日の使い方

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(別に行ってない風景)

 

 

せっかくの4連休なのに、やることが何もない。

 

予定もない。コロナとかそんなの関係なく、だ。

 

とにかくやる気が起こらない。

 

スマホばかりを見て、そこまで見たくないYouTubeの動画を見て、Twitterを見て、気づいたら3時間経ってる。

 

飲みに行こうかなとかは思う。

 

思うけどじゃあこれから顔洗って、髪セットして、パジャマから着替えてとかそういったことをやらなきゃと考えると、

 

飲みたい希望よりもやりたくない願望が勝つ。

 

だから外にも出られなくなる。

 

まあこれは良いこととしよう。酒は飲まずに体に良いし、お金も出ていかない。禁酒も捗る。

 

なんだ、こう考えれば全然悪いことじゃないか。

 

自堕落万歳、やる気ゼロ万歳。

 

 

とはいえ、人間一日中だらけすぎていることはできないとおもってる。

 

一日中ずっと家に篭っていれば、

必ずなにかやろうかなって、思う時間帯が来る。

 

でもそう思う時って大体夕方4時半から5時にかけてなんだよね。

 

しかしこの時間からでは、動くには遅いし、動いたらところでどうせ6時7時くらいからイベントが始まるわけで。

 

だから結局何もしないまま1日が過ぎる。

 

そうなるたびにこういう生活はやめようと思うけど、なかなか治らないもんだ。

 

 

だってこんな生活はもう経験してきたんだから、もういいでしょ。

 

もうやり切ったんだから別のことやらなきゃと頭では思う。

 

けどうまく行かない。

 

そんなこんなで気づけばもう2日目の夜だ。

 

これじゃあ土曜日曜と普通の2連休じゃないか。

 

何かしたい。

 

でもやる気が出ないから行動できない。

 

ベッドでゴロゴロ過ごすだけ。

 

消化不良の2日間だ。

通勤時間に思うこと

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今日の電車はいつもと違う。

 

これまでずっと資格の勉強に忙しかった。

 

満員電車とはいえない密度の中で、参考書をめくりながら通勤する日々だったが、それも今はない。

 

ゆっくりと新聞を見て、こうしてブログも書ける。

なんて贅沢な時間なんだ。

 

満員電車は嫌いだけど、比較的ゆとりあるこの時間帯になる電車は嫌いじゃない。

 

座れるか座れないかの目には見えない形で隣に突っ立っているオッサンとの交渉も、それはそれでいいのかもしれない。いや、よくはないわ。座りたい。

 

在宅勤務しかしてこなかった4月5月に比べれば、朝起きる時間が2時間も早くなり、通勤時間ができたことで苦痛に思うときもある。

 

だけど最近は、通勤時間があるから気持ちの切り替えができて、仕事を頑張れるのかもしれないと思ってきた。

 

家での仕事はどうも気が進まない。

 

今まで快適で、ぐったりするための家に仕事が放り込まれたら、そりゃやらない。

 

俺の家と仕事は対局線にある。

そしてそれが大半の人にとっては普通なんじゃないか。

そんな環境でやる気出そうと思ってもそりゃ無理だ。

 

 

だからこそ、出社して働くのが今の自分にはいちばんいい。

 

どれだけ朝眠くても、電車に乗ってしまえば元気が出る。

 

出社すれば、いい緊張感ができて引き締まる。

 

とにかく、今日からまたゆっくり通勤時間を過ごして行こう。

 

他の勉強をしろと言われるかもしれないが、その声にはあえてそっぽを向いておこう。

禁酒のツケ

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前にも書いたけど

 

缶ビールが苦すぎる

 

小学生に戻ったみたいだ。

 

資格試験に受かったご褒美にビールを買ったが、とんだ間違いだった。

 

あれだけ分かっていたはずなのに、不思議だ

 

https://timotimo.hatenadiary.jp/entry/2020/05/03/003828

 

なんでだろうなぁ

人は間違いを繰り返すって痛感していたはずなのに、またすぐに思う時が来るなんて。

 

 

 

居酒屋で飲むビールはそこまで長く感じないんだけどなぁ。

 

これは家で飲まず外で飲めということなのかもしれない。

 

だけど今は飲み会禁止令が敷かれている。

 

となれば、すべきことは一つ。

 

ビールは飲まない。飲んでもノンアル。

 

禁酒生活が普通になってしまっている以上、もはや禁酒でもなんでもない。

 

酒を飲まないようにするとかではなく、酒の必要性を感じなくなった以上、飲まなくてもいい。

 

今日のご褒美もおいしいご飯を食べるとかにすればよかった。