「秒速5センチメートル」を見た感想 重たすぎて苦しいバッドエンド

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新海誠が手掛けたアニメーション映画。

 

実はこの映画を見るのは今日で2回目だ。

前回は2ヶ月前くらいか。

 

最初に見た時も、「なんて重たい映画を見てしまったんだ」と苦しかったが、今回見てもやはりしんどいバッドエンドだと思った。

 

自分史上最大のバッドエンドだったことは変わっていない。

 

だけど、ハッピーエンドと受け取る人の意見も少しわかった気がした。

 

 

そもそも、なんで秒速5センチメートルをもう一度見ようとしたかと言えば、昨日書いたブログ、音楽に引っ張られたからだ。

 

山崎まさよしのone more time,one more chanceはこの映画の主題歌だ。

 

そして、「二度と会えない人だけど、どうか会いたいと思ってしまう」感情を繊細に描いたのはこの映画だ。

 

だから、昨日ブログを書きながら、もう一度しっかり見たいという欲がどんどん出てきて、いてもたってもいられなかった。

 

あぁそうか、だから今日の仕事は怒られまくったのか。まぁいい。

 

主人公の貴樹の感情、俺はすごくわかる。そして同時に、山崎まさよしの歌詞が痛いほどに染みる。

 

誰しもが心の奥底に溜まっている感情は、この映画を見るとすごく引っ張り出される感覚を覚える。

 

なんかこう、すごく苦しいものがこみ上げてくる感じ。

ナルトの腹の中にいる九尾が出てこようとする感じか。

 

ダメだと思う一方で、でも出てきて欲しいと思うあの感じ。物想いにふけたいときに、それは出てくる。いや、自ら出しているのかもしれない。

 

少し話が逸れた。

自分の心の中の言い表せない感情には今は目を向けないでおこう。

 

 

映画の話に戻る。(内容の説明はしない。見た人にだけわかってくれればいい)

 

そもそもなんで俺がこの映画を見てバッドエンドだと感じるのかと言うと、主人公の貴樹は結局前を負けきれずに終わっているからだ。

 

貴樹だけじゃない。花苗もだ。最初の明里もそう。どの場面も望んでいない方向へと進んでいく。

 

なんでそうなっちゃうんだと心の中で何度も思った。「残酷すぎる」と。

 

花苗に関しては、花苗のもつ気持ちは半分正解で半分は勘違いだった。それに気づかないまま貴樹と離れてしまう花苗の気持ちを思うと、辛かった。

 

まさか好きな思いはあっても、貴樹が宛先のないメールを打っているとは知らなかっただろう。

 

もったいなさすぎる恋だと思った。高嶺の花とかじゃない方の、もったいないね

 

でも、あのコスモナウトが貴樹の気持ちを視聴者に気づかせるきっかけになっている。

 

エンディングに向かうにつれて、大人になるにつれて、貴樹は結局昔の記憶が頭から離れず、その世界と現実を行き来したまま大人になってしまった。

 

一方の明里は彼氏ができたりと、次のステップへと生きている。

 

明里は前に進んでいるが、貴樹は前に進めていないこの構図が、最後の場面ではっきりした。

 

なぜ、こう対照的な結果になったのか。

この違いって多分ね、「男は精神的に弱いから」だとか、「女は前を向く生き物だから」とかそういう理由もあるかもしれないが、

 

「思い出が残っているかどうか」の違いもあると俺は思う。

 

要するに、明里は貴樹との手紙を大人になっても持っていた。だからその手紙をたまたま見たときに、手紙を頼りにきちんと過去を振り返ることができるし、思い出せるからこそ「あんなこともあったな」と、思い出の一つとして振り返り、前を向けるんだと思う。

 

一方で貴樹は手紙を持っていなかった。思いだすモノ何も持っていない。それはつまり、明里を思い出すのは頭の中でしかできないということ。頭の中で思い出すと言っても、断片的な記憶だけだ。それに記憶は美化されるという言葉があるように、貴樹は断片的なそれを必至につなぎ合わせて、

頭の中で考える。

頭の中で出会う。

頭の中で明かりと話をする。

 

言わば貴樹は架空の世界に生きている感じなんじゃないだろうか。

 

現実世界とは違うパラレルワールドが貴樹にはあって、その世界にはあの頃の明里がいる。

 

だから辛い時、心に弾力がなくなったときにはその世界へ入り込み、過去を思い出すのではないだろうか。それはもう思い出というよりも妄想に近いというのに。そして、それこそが心に弾力をなくす事だというのに。

 

「とにかく前に進みたくて、ほとんど脅迫的な思いがどこから湧いてくるのかもわからない」

という貴樹の言葉。

 

これはそのパラレルワールドから抜けようと努力していたのに、次第にその努力のやる気は無くなっていく。それに気づいたときにふと、心の張りがなくなり、仕事を辞めるほどやつれてしまったんだろう。

 

なんでこうなってしまったんだろう。

 

その答えは、最後の踏切のシーンで一気に貴樹フラッシュバックして出てきたのではないかと思慮する。

 

最後のシーン、貴樹が辛すぎて心が苦しかった。

 

踏切で明里と貴樹がすれ違ったとき、貴樹だけが振り返った。明里は振り返らなかった。

 

このシーンに全てが詰まっていた。

 

前に進んだ明里と、進めない貴樹。

 

過去を彷徨う貴樹に訪れた一瞬の奇跡。振り返ればもう一度明里に会える。

 

でもその願いは叶わず、電車が過ぎ去った後に明里はいなかった。

 

貴樹だけまだ前に進めていなかったのだ。だから振り返った。

 

こんなにわかりやすく、残酷なシーンがあっただろうか。

 

パラレルワールドを捨て現実世界を生きるチャンスだったのではないだろうか。

だからこそ、明里に、振り返ってほしかった。

 

こうも思い通りにいかない映画があるだろうか。

やっぱり重たい映画だ。

 

 

でもこの映画さ、原作だと最後のシーンで貴樹はニコッと笑ってるらしいね。

 

さらに、映画でもちゃんと笑っているらしい。

本当か?それは確かめないと。

それを確かめるためにもう一度見たみたいなもんだ。

 

そしたら、たしかに最後ニコっと笑っているのだ。

 

 

であればそれはつまり、過去に折り合いをつけたということだろう。

貴樹が過去を断ち切り、前に進んだんだ。

 

過去の萎え切らない気持ちが、思い出へと昇華した瞬間だろう。

 

あぁ、そうか。バッドエンドではあるけど、少しだけ、ほんの少しだけ貴樹は前に進めたんだな。

 

自分の力で、パラレルワールドに抜けたんだな。

あぁ、よかった。涙が出そうだ。

 

貴樹が可哀想すぎたから、本当よかった…

 

 

 

貴樹すごく親近感あったな。

もしや今の俺の状態は貴樹か?俺は貴樹なのか?

だからまた映画を見たのか?そうなのか?

 

まぁ、いいや。自分の心のことは自分で整理しよう。

 

この映画で教訓になることが2つある。それは、思い出は残しておくべきだということ。昔付き合った人との写真なんかは、残しておいた方がいいんだわ。

 

そのモノが思い出に色をつけ、それが同時にストッパーにもなる。ひどく入り込まず、適度な距離感で過去を思い出させてくれる。

 

逆に思い出の品がなければ、頭の中で余計な色つけたパラレルワールドが出来上がってしまう。その中で妄想が始まり、出てこれなくなってしまう。美化されすぎて、過去に引きずった人が出来上がる。

 

やっぱりワシやないかい。

 

 

2つ目。どんなことも時間が解決してくれるということ。どれだけ辛くても、なんとも言えない気分に苦しむことがあっても、時間が解決してくれる。見方になってくれる。

 

貴樹の様に、良い思い出として、あるいは正確な記憶として昇華する時が必ず来るということ。

 

だから、そういう意味では今の感情に正直に生きることも大事なのでは。と思う。

 

いやぁ、やっぱりしんどいわ、この映画。悲しい。

 

そしてあの踏切のシーンだけで今までの感情を詰めて、表し切るとは、映画監督ってすごいんだな。

 

新海さん、こんなにリアルで悲しい映画を作っちやうと、俺みたいな被害者がわんさか出ますよ。

 

あと、この映画で流れる音楽は雲海の旅2で存分に使わせてもらった。誰かわかるかな。

 

そういう意味では、悲しい映画だけど、すごく心に残っている映画だネ。