長岡花火から思うこと
8/2,3は毎年長岡市で花火が上がる。
まぁ長岡花火を知ってるか知らないかはまぁ正直どうでも良くて。
興味があるなら行ってくれ。凄い花火だと思う。
人生の半分以上長岡花火を見ている自分からしたらに、もうだんだんと感動しなくなってくる。
いや、感動しないっていうとそれはそれで誤解が生まれるな。
始まりがトップレベルから刺激だったから、それ以上は無いから感動も少なくなる感じかな。
費用逓減してるということ。
だから、東京の花火を初めてみたときはなんてショボいんだとつくづく思った。
神宮花火大会なんてもう二度と行かなくていい。
「いつメイン?」突っ込みたくなる様なボケみたいな花火が上がってたのを思い出す。
そんなことを考えてると、あぁ、やっぱり長岡花火すげえなって思う。
ただ、もういいかなとも思うよ。
そりゃみたいけど、血眼になってチケットとったりはしない。
こういう冷めた人間もいるさ。
別に花火の話をしたいわけじゃない。
言いたかったのは
「花火があがると夏が始まったって感じるよなぁ」っていうこの感性、感覚についてだ。
雪が降ったら冬を感じたり、セミが泣き始めたら夏だと思えることは日本の良いところだと思う。
「夏が来たなぁ、春だなぁ」と、誰もが一度は思ったことがあるはず。
こうした感覚は誰にでもあると思うが、俺が共感してほしいと切に願うのは、その先にある儚さだ。
ちょっと寂しさを感じることってない?
虚無感と季節の移ろいが交わるあの感じ。
あの感覚が好きで好きで仕方がないのだけど、わかるかな
単に季節を感じるだけでなく、その先にある少し悲しい気持ちもあるあの感覚。
誰かわからんかな、この感覚。
とあるイベントが終わった後の虚無感✖️季節
とでもいえばいいだろうか。
高校の卒業式が終わり、夜みんなでご飯を食べ、1人で帰り道を歩くときのあの感覚。
大学の卒業コンパで大酒をかっくらい、社会人がんばろうぜと写真を撮り、解散した後の虚無感。
どう、なんとなく分かってきたか。
ピンと来ない人はこの曲を聞いてみてほしい。
そうすれば少しわかるかも。
要はノスタルジーになる感じ。
懐かしい、そしてどこか悲しいあの日々、みたいな。
もっと鮮明に浸りたいんだけど、
座っているといてもたってもいられずソワソワしちゃう感じ。
もう少しわかりやすくいえたらいいんだけど
今の俺の力ではここまでだ。
あの感覚が好きだ。
そしてこういう感覚が俺の中には季節の数以上にある。
この月になったらあれを思い出したり、この場所に行くとこみ上げるものがあったり。
ナルシストなんだろうな。
けど、こうやって一つ一つの場面に対ししっかり自分の感情と向き合えている自分自身の事を、俺は良いことだよなぁと思える。
ただ闇雲に毎日を過ごす一方で、節目節目、あるいは場面場面でちゃんと立ち止まって感性に浸れることは生きていく上で大事だと思う。
働き始めて思うのは、こういう自分の中にある感覚を毎日大事にしていかないと一気に味気のない毎日になってしまうということ。
毎日遅くまで働いて、帰って寝て、朝起きて、休日は何もせずダラダラ過ごし、気づいたら日曜の夕方を迎えているような日々では、つまらない。
かといって出かける気持ちも起こらない。ましてやコロナで誘い方すら忘れてきた。
そんな中で大事な事って、一つ一つの感性とか感覚に向き合うことだと最近は思う。
眠たいとかめんどくさいとか、そういう感覚じゃなくて、
とある自然やある季節、場所で感じる感覚
それ大事にしたいと心から思う。
この感覚が全くわからないという声には、あえて耳を傾けないでおこう。