生きた証を残すなら動画を撮るべきだと思う理由

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最近久しぶりにYouTubeに動画を連投している。

 

在宅研修もいい意味で慣れてきたから、うまく怠けるというか、力の抜きどころもわかってきた。

 

 

 

ずっと家に居れる情況になった故に細々と投稿を再開し始めたわけだが、動画を編集するたび、そして動画を見るたびつくづく俺はこの趣味ができて良かったと感じる。

 

 

「動画は偉大である」 

これが思ったより人には伝わらない。俺の温度感だと、伝わっているのは高校の同級生の〇山ただ一人だ。彼は分かってくれているからこそ、動画に出てくる回数は必然的に多いし、見たいと言ってくれる。

 

俺が動画を作るモチベーションになっているから、とっても感謝している。ありがとう

 

 

  

繰り返すが、やっぱり、動画って偉大だと思う。

 

もちろんみんなご飯や旅行、イベントなどがあったときは記録を残すだろう。でもそれは写真という形で残すことがほとんどだと思う。

別に写真が悪いとは言っていない。俺もよく写真は撮る。

 

でも、写真は喋らない。動きもしない。なんというか、脳の奥底まで届いてこない。

 

でも、動画は違う。画面の中で動いている。自分が生きた記録、生き様が動画の中に残っている。どこへ行き、どんな会話をして、何を思っていたのか。

寒かったのか暑かったのか、ごはんはどんな味、どんなにおいをしていたのか。

 

全部よみがえってくる。すごく引き込まれる。自分を見るのが恥ずかしいとか恥ずかしくない云々ではなくとにかく引き込まれる。画面の中の自分、もう決して戻れないあの時の自分が、画面越しに生きている。この凄さ分からない??

 

 

今はもうユーチューバーという言葉があるように動画を撮ることが珍しくない。そして動画を見ることも多くなってきた。確実に。

 

でも、改めて考えるとすごいことだと思う。画面の中に昔の自分がいて、動いている。喋ってる。

 

まるでタイムスリップした気になるのは自分だけだろうか。動画で残すという形は、本当にかけがえのないものだと思う。

 

恥ずかしさとかもう感じないよね。

あぁ、俺は確かに毎日生きているんだなと思える。脳が刺激されめくっている。

 

なんだかロマンチストみたいになってきたな。

 

こういう思考回路になっているから、動画を撮って後で振り返るのが楽しくてしょうがなくなる。

たまに自分でタイムマシンを作っている感覚になるんだよね。

 

少しずつだけど自分の動画を残していけば、自分が70歳になったとき、20歳の自分が話してる映像が見れるわけだ。こんな素晴らしいことがあるだろうか。

 

最終的に自分が死んでいっても、動画の中では生自分は生きている。

もし将来子供や孫がいたら、昔の自分の姿を見せることができる。それは写真で見るよりもはるかに面白いことになるんじゃないかと思う。

意外と子供って親の過去を知らない。最近父親と飲むようになってから初めてわかる事実も多い。自分が生まれる前の話を幼少期に聞くのと今聞くのでは重みというか、考えることが多くなる。

 

まぁ動画があるからといって過去が全部伝わるわけではないが、「親でもこんなもんだったんだよ昔は」というのをより分かってくれるだろう。

いつかそんな風に語れたらなと動画を作ってて思ったことだ。ひそかに夢見ている。

 

もちろん撮影に協力してくれている友達にも感謝している。

俺の場合カメラ目線は絶対に無いが、盗撮みたいな形で撮影するため気になる人もいるかもしれない。でも少なくとも俺の動画に出てくる人はみんな嫌な顔はしないからそこは感謝している。

 

なかなかまとまらなかったが、とにかく今俺の中では

動画を撮ること=生き様を残すこと=タイムマシンを作るとこ

 

みたいになっている。

どう思われようともかまわない。でも、年をとればとるほどやっててよかったと思えるだろう。確信している。将来のために動画を作ってるといっても過言ではない。

 

超逆算された趣味とでもいえようか。今度から趣味はタイムマシンを作ることと言ってみようか。

 

まぁいずれにせよ自分が楽しんでいれば何も問題はないだろう。楽しいし、財産を残せる。お金では買うことのできない財産だ。

 

この気持ちを忘れたくない。仕事で疲れてても、悲しいことがあっても、なんとかこの趣味だけは続けていきたい。

 

さてさて、数年前に撮った動画もフォルダからどっさり出てきたことだから、昔のことを思い出しながら作っていこうか。

 

 

生きた記録を残したい方は、写真よりも動画をお勧めいたします。やってみると面白いはず!